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槌と 第一話

「つっつき妖怪」

 カマイタチは覚えている。彼女の中でまた一匹奴らが産声を上げた夜のことを。

その女は、後に夫となる男と恋愛を経て結婚している。恋人同士の関係で同居を始め、しばらくして結婚している。
 結婚する男と女二人の関係にとり真に望ましいのは、生涯友で在り続けることであり、生涯恋人同士の関係であり続けること。そして夫婦としてやがて二人は子供を持ち親となるべきだろう。
しかし夫婦となったとき、友人ではなくなり恋人同士の関係でも無くしてしまう二人がいることはかなしくもよくありがちな事実だ。
 どうやらこの二人もその例にあてはまっていたらしい。ゆえに二人はめでたく男の子を一人授かったが、同時に二人の関係は一人の男の子の母親であり父親でしかなくなっていった。男にはこれまで恋人であった女が子育てに手をとられ自分自身がないがしろにされるのが面白くなかったのだ。
 女はよくわかっていた。夫にとり、女としての自分の価値など半分になっておりその原因が我が子にあるということが。
 しかし女には女としての自分の幸せよりも我が子の方がかわいかったらしい。一方で、その昔に恋愛をし、結婚をするに至った男にせめてよき父親でありることを望んだが、しかし彼女の夫には難しいらしい。
 さいわい男は家庭に金だけは滞りなく入れたが、案の定、夜泣きのする赤子がいる家にはあまり近寄らなくなっていった。
女の心は砂漠のように渇いていったが、我が子かわいさだけは色を濃くしていく。
しかしそんなある日、子が寝返りを打つようになりだした頃、女の一家はアパートに住む階下の住人から苦情を受けるようになった。なんでも、子が寝返りを打つ際にたつ床を打つ音が非道く五月蠅く気になってしかたがないのだという。
しかし女は畳の上に敷き布団をしきその上に赤子を寝かせつけているはずだった。音は立とうとも果たして階下の住人に神経を逆なでさせるほどのものかと疑いはするものの、
「以後、気をつけるようにいたしますわ……」
弱気に答えてしまうのは赤子を抱えた身動きのとれぬ境遇のせいだろう。
頼り甲斐のない夫がこの問題にどう真摯に取り組んでくれようものか。
案の定、
「幼子がいると事情を伝えればわかってもらえるはずだろうが」
「話したけれど階下のご家族きっと異常なのよ。赤子が寝返りを打つだけでこれなんですから。子供が這いゞをするようになる頃を思うと今からでもゾッとするわ」
「俺にいわれても知らないよ。だいいち家庭のことは一切お前に任せているはずだろう」
「…………」
煩わしい物事は多いけれど、一つ々にくよくよと恨み言をつぶやくより解決の方向へ前向きに歩いた方が現実的だと思うのは、彼女に纏いうる唯一の心の鎧であった。我が子が二足で歩くようになる頃、階下からの嫌がらせは床下から突き上げてくる、扉を蹴りつけてくる、深夜にいたづら電話が鳴り響く、など、日増しに過激となっていく。女はただひたすら震えながらも、密かに内職をして貯めた金を遣いまるで逃げるかのように転居の方向へ追いやられた。
部屋はどのみち親子三人では狭くなる予定だったし、これという思い出ももはやない。かつては愛の古巣だった場所に未練などまったくなかった。
見ていて哀れでしかたがないのは徐々に自活力のついてきた女房に蚤の雄みたいについて回る夫の姿だった。甲斐性もないくせに方々で安い女に入れ込んでいる噂は小耳に挟むたび黙殺するようつとめてきている。此度、何の相談もなく決めた転居に夫がほいほいと主人としての憤り一つみせずについてくるのは、もしや小遣い銭の事情に都合のいい合致を見込んだだけに違いなかった。しかしそんな男でもかわいい我が子の父親である。
とはいえ子供が2歳になる頃、彼女にとって夫とは身の回りの世話をする代わりに生活資金の拠出を要求する対象でしかなくなっていた。あるいは時折下腹を突き上げてくる欲求を慰めるための単なる肉棒でしかない。
越してきた新居は2階だが階下に居住空間はなく、また同階に住人はいるものの部屋同士の壁面が隣接しているわけではないので、他家に音の干渉を与えることは皆無である。3歳の子が寝たあと、肉の欲求がこれほどまでに抗いがたいものだとはついぞこの間知ったばかりの女だった。
子が3つになり物を言うようになったころ、夫も少なからず夫としてのプライドや親としての自覚が徐々についてきたようで、昼に子が保育園に通う間をパートに費やす時間も日常から徐々にへっていった。そうなると女には自分自身の時間がもてるようになるのだったが、自由になればなるほどこれまでの地獄がいったい何だったのかよくわからなくなった。
といって、周りの主婦がそうであるように即物的でどこか享楽的にもみえるような日常を過ごす気にもなれない。いつまたあのような地獄が身の上に訪れるかわからない。人の日常には魔物が住んでいて、ほんのわずかでも弱みを見せればその魔物は容赦なく食らいついてくる――。

その家族が上階に越してきたのは子が4つを迎える年のことだった。
「上に越してきたご家族の旦那さん、夜のご商売をなさっている方なんですって」
「へえ、そりゃ大変だねぇ」
「大変って、どうして?」
「そりゃあ今は不景気だからさ。外を飲み歩く人の数もうんと減っているらしいね」
「赤ちゃんが生まれたばかりみたいなの。うちと違って、女の子だそうよ」
「へぇ、くわしいねえ」
「だけど旦那さん、女癖がちょっと悪いって、今からもう評判になってるの。子供に奥さんをとられて寂しいって思うたちの旦那さんね。でなけりゃ、今が浮気のチャンスといわんばかりの人かしら」
「……もう寝なさい」
――
「上の旦那さん、最近は家にきちんと帰っているみたいよ。だって、夜中にシャワーの音が聞こえてくるの」
「へぇ、そりゃ奥さん孝行でなによりだ」
「赤ちゃんが1歳になるともうそろそろ落ち着くころだものね。仕事で疲れて帰ってきて、2時間おきにおっぱい欲しさに起きる赤ちゃんに、ついでに起こされたんじゃ堪らないものね。男はみんな逃げ出すに違いないんだから」
「…………」
――
「上のご家族の赤ちゃんが寝返りをする音が耳について離れないの。あたし、眠れないわ」
「気にしすぎだよ。だいいち相手は赤ちゃんじゃないか」
「親が寝かしつける時間が問題なのよ。いったい今何時だと思っているのかしら。あたし、赤ちゃんのことが心配なの」
「旦那が水商売をしている一家のことじゃないか。寝静まるのが遅くたって、ひょっとすると自然なことさ」
「やけに相手の肩を持つのね。あなた、最近またお酒を飲むようになったみたいだけど、もしかして上の旦那さんの店にツケでもしているのかしら? あははは」
「何を馬鹿なことを。もう寝なさいな……」
――
「上の赤ちゃん、這いゞをするようになったみたいね。床の上をはいずり回る音が毎日のように聞こえてくるわ」
「へえ、いいことじゃないか。子供の成長は宝物だよ」
「けど五月蠅くて仕方がないの。あなた、ちょっと注意しにいってきてよ」
「何を馬鹿な……赤ちゃんが這い這いをする音がそんなに気になるものかい?」
――
「ねえ、あなた。上の赤ちゃんが二足立ちするようになったみたいなの。夜中に尻餅をつく音が五月蠅くて五月蠅くてしかたがないの。どうにかしてちょうだいよ。あたし、眠れやしないの」
「…………」

「おい、いったいおまえは何をしているんだよ。上の階には赤ちゃんが住んでいるんだろう」
「だって、上の物音が五月蠅くて五月蠅くて仕方がないの。あたし、もう三日も眠れていないんだから」
「…………!」

大阪福島にある豚の鍋と串の居酒屋とんさいやが生んだ新しい妖怪話。「カマイタチとノヅチと」





見るに見かねたカマイタチが彼女をいよいよ斬りつけたのはその夜のことだった。
人の中に巣くう妖怪は、のちにイタチ――だけでなく生けとし生きるもの全ての生命を脅かす存在となりかねない。
カマイタチに斬りつけられた人間は、次の満月の日まで生死の間をさまよい続ける。その身に宿した妖怪が息絶えるのが先かあるいは宿主の命が尽き果てるのが先か。それはカマイタチにも分からない。
カマイタチは妖怪を斬りつけたあと、人の生死にまで関心を持ち合わせていない。ただ人の中に巣くう妖怪を人と同時に斬りつけるのみである――。

三日三晩生死の境目をさまよった後、女は病院のベッドの上で目を覚ました。
「やあ、平気だったかい」
「あたし、どうしちゃったのかしら」
「心配したよ。急に倒れちゃったんだから」
「あら、やだ、当時のことをぜんぜん覚えてないわ、わたし…‥」
「忘れていいさ、無事だったんだから」
「突然、目の前に、恐い顔をしたリスかネズミみたいな生き物が現れたかと思ったら、その直後に斬りつけられたような気分になったの」
「……寝ていなさい。まだ完全にはよくなっていないんだよ、きっと」
「赤い目をしていたわ。あれってまるで」
「……もうお黙りなさい」
「ねえあなた」
「なんだい」
「笑わないで、あたし、夢を見たの。あたしがもしも上階に住んでいる母子に危害を加えるような女だったら、あなたどうしていた?」
「……なぜそんな風な訊き方を僕にするんだい」
「うふふ、それは秘密。だって、恥ずかしくていえないんだもん。たとえ夢の中であれ、あんなことをするなんて、あたしどうかしちゃっているの」
「…………。」
「ねえあなた、ところであたし、どうしてベッドに縛り付けられているの? ねえ、ほどいてよ。だって、これじゃ手足が自由に動かせないじゃないのよ。まるで囚人みたい。うふふ、信じてもらえないのかしら。あたし、悪い事なんて一度もしたことがない女なんだから」



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