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「鎌鼬と野槌と」 バスケット妖怪

 

芦原卓は近所でも特に子煩悩な男で通っていた。

一般的に男親というのは、赤ちゃんのおむつを取り替えたり、風呂に入れてやったりといった、ただ愛撫さえしていれば可愛いがってやっている実感のわく世話とは違う、実際問題手間のかかる面倒を本能的に嫌うものである。

それは男が家事や洗濯を不得意にするのと同じ心理が働いているからだ。

親は皆、子供が可愛く思えるようできている。それがたとえどのような親であろうともだ。だがその愛情の深さには個人差がある。

我が身の眠気眼の可愛さや、享楽のための我が身の自由欲しさに子育てを平気で放棄する類の親には、どうしても父親の場合が多い。何かと理由をつけては子育てから逃げようと必死な姿をよく目にしてしまう。例えば、あるはずもない仕事の用事を言い訳にしてみたりなどして。

人の生活は金銭の収入にほぼ全て寄りかかっている。しかしだからといって仕事を人質にとっていいものかどうか、それは人がそれぞれ決めていくべき事がらなのであろうものの、芦原卓にはどうしてもただ傍観していることのできない、不思議な憤りが毎日胸の中を蜷局している。

芦原にいわせれば、世の女は皆立派だった。嘘っぱちの仕事を理由に子育てを放棄する男と一緒になって、それでも女は家計を助けるためにパートへ働きに出たりし、なお、家事と子育てに追われる生活に辛抱で堪えている。というのがごくごくありふれた一般的な家庭というやつではないだろうか。芦原は世間をそう見ている。

果たして、女の生活力というやつは男にとって偉大なのだ。だからして男は皆本来、女というものの存在に感謝しながら生きていくべきものであり、女という存在がなければ、また男としての生活はなし得ない。それが一般論と言って、芦原の中ではほぼ間違いないはずだった――少なくとも、結婚をして子供ができるまでは。

芦原が思うに、自身の家庭の場合はちょっと一般論から外れているようだった。

特に、長男の良夫が生まれてきて以来。

世間の主婦たちから見れば、芦原が家族を連れてあひるの親子よろしく、どこへ買い物へいくにも父親の手で小さな子を抱いて歩いているのを見ると、

「いいパパで良かったね」

などと、最初は芦原の子煩悩を褒めた。

だが、女房が産後の肥立ちが悪いことを理由に部屋にこもりがちになって以来、毎朝々芦原自身が子供を背中におんぶした恰好で洗濯物を干したり、おしめを換えたり、ご飯を炊いたり、子供を託児所に預けに行ったり、子育てに追われている姿を見ている内に、徐々に周りの目が微妙に変化していくのが感じとれてくるのだった。

「あそこの旦那さんから子煩悩をとってしまったら、後には何も残らないということだよ」

などと、特に周りの男親はそのように近所の主婦がする噂話をいいくるめるのだった。

「男なら遊びの一つも知っていなけりゃ、世間では役に立たなくなるだろうね」

「いっそ保育園の先生にでもなっていりゃぁ、芦原さんのとこの旦那さんも、ちょっとは出世の道が開けた気がしないでもないがね」

―――。

おりしも時代は団塊ジュニアと呼ばれる第二次ベビーブームで、絵の具やクレヨンといった子供の教育資源が飛ぶように売れた。芦原卓はそういった絵画道具を生産する会社の工場部門に勤めていた。

会社の業績は伸びていく一方だったが、工場勤務の作業員が増えていくにつれ、芦原の給与袋は薄っぺらくなっていく一方だった。本来ならば将来に生産的に有望な人間が不景気の下敷きにされ可能性を奪われてゆく構図が一般的にある時代もあれば、たとえ賃金が安くとも誠実な労働を提供できることだけが取り柄の、不景気な世の中ならば特に重宝されそうな人間が、好況の世間で下敷きにされてゆく時代も確かに存在する。

一生涯に稼げる賃金が計算し尽くせる環境にあるならば、では夢のない者にとって、あとはその賃金に対し裂くべき労働力との量的な比較をどう駆け引きで有利に持ち込むのかが単純労働者にできる最大の抵抗手段だといえた。

「おい、芦原、すまないが、こんどの休日出勤の出番を、俺と交代してほしいのだが」

「ああ、分かったよ。俺はこの工場にここが出来た頃から厄介になっている。先輩として、皆の変わりに休日を犠牲にしてやるよ」

「おい、芦原、今日の残業を代わっておくれよ。夜、子供にどらえもんの映画を観に連れていってやりたいんだ。偶然、チケットが手に入ったものだからさ」

「ああ、構わないよ。だけど羨ましいねぇ。どうやって手に入れたのだい」

「それは内緒さ、ともかくお前は俺の代わりに働いてくれればそれでいい。だって、給料は変わらないんだからさ。フフフ」

芦原の会社に対する貢献度はかなり高いものだと言えた。だが伸び調子の会社が真に必要としているのは、商品開発力だの、営業力だの、新しい生産力をもった大卒の若い知識人たちだった。そもそも商品に買い手をつけてなんぼの世界なのだ。つきつめたことを言えば、単純な労働など学がなくとも誰にでもできるのだった。

「あんた、隣の家の旦那はもう係長になったって聴いたわよ。給料だって少しは上がったらしいわ。それに比べてうちの旦那ときたら。このままじゃ、うちはいつまで経っても貧乏のままだわいね」

「俺だって、歯を食いしばりながら頑張っているさ。俺の給料でこと足りないというのならば、お前の浪費癖をなんとかすればいいんじゃないか。あるいはお前も外へパートにでも出ればどうなんだ。日がな一日中寝てばかり。働くのが無理ならば、家事の一つもやってみろというのに」

「バカめ。見て知っているだろうが。あたしはこのとおり、産後の肥立ちがかんばしくないのさ」

産後の肥立ちといっても、息子の良夫はもうすぐ10歳になるというのに……。

息子が生まれて以来、日に少なくとも5グラムずつは重くなる女房の体だった。息子が中学にあがれば、塾だの何だのときっともっと金が要る。

息子には無学な自分と同じ想いをさせてやりたくはなかった。

金が要るというのに、努力がいまひとつ実らないのは何故だろうか。

ある朝、食後に皿を洗い終えた後、居間の畳の上で依然アザラシのように横臥している女房を睨み見下ろしていると、ふと開いている新聞の記事に記された、とある見出しに芦原は目を奪われるのだった。

『少年バスケットボール選手募集。

果てはプロ選手か、エリートか。スポーツ推薦で大学入試。

小学生の頃からバスケットボールに取り組んできたOBの声。

〝わたしの家は貧乏で、学力で大学へいく資本が全くございませんでした。しかしスポーツ推薦の制度を知って私の人生は180度変わりました。小学生の頃からここのクラブでバスケットボールに打ち込んだおかげで、ほぼ無料の学費で有名な私立大学へ進学させていただきました。今は大学を卒業し、燃料系の大きな会社へ就職をさせていただきました。いまはそこで最も若い年齢で課長を任せていただいている身分です。もちろん、今でもバスケットには携わっています。努力は絶対に実るものだと思います〟』

バスケットボールなら自分にも経験があった。昔から、運動神経にだけは自信がある。

読んだ直後に「これだ」と芦原は思った―――。

続きだよ ケケケと

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