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不動産ものサスペンス小説 くらきかお10



長身の新田が駆けつけて、ようやく藤谷守を羽交い締めにして抑えた。だが狂犬は牙を剥き出しにしたまま、獲物に爪をたてる行為を諦めようとはしなかった。

最後に堅い靴のつま先で脇腹をえぐられて、井之上順平という名の若いつばめは、血の泡を口元に浮かべながら、無防備な体勢で仰向けに倒れ込んだ。

右目には、藤谷守がいつも胸の内ポケットに忍ばせているカルティエの万年筆が突き立てられている。

大の字に寝そべったまま、井之上順平は気を失っているようだった。

藤谷守は血生臭い息を荒らげながら、まだひどく興奮した状態でいる。

誰かが井之上青年に応急措置を施すべき状況ではあったが、まるで鮫にでも喰い千切られたかのように血まみれの男が、陽の照りつける砂の上でシャツを赤黒くしたまま野ざらしにされている様子を見ていると、たしかにこういった光景を見慣れていない一般人にとっては、近寄りがたいものがあるのだった。

「いったい何があったというんだ、守従兄(にい)さん」

本宮慎一はハンカチを口元にあてながら、井之上順平の頭の下に、丸めて枕状にした喪服の上着を敷いた。

「う、これは酷い」

井之上順平の唇には、砕けた歯の破片がいくつか突き刺さっている。

鼻が赤黒く鬱血し、まるで熟れきったいちじくのように肥大している。うかつに触れれば、危うくもげてしまいそうだった。

本宮慎一は、血まみれとなった井之上青年の体からしばし離れ、草の上を見つけてそこに反吐を吐いた。

藤谷守は折れて血まみれとなったステッキを草むらに放り投げ、地面に唾棄しながらこう罵った。

「このお調子者の馬鹿野郎が、気安く俺のサングラスに触れやがったものだから」

「…………。」

暴れた拍子に、守自身も古傷が開いたらしかった。左足の骨を繋いでいたプレートを抜くために切開した箇所が破け、そこから出血しているようだ。

宿主の呼吸に合わせるかのように、顔の左側を縦に這う傷跡が、まるで生き物のように蠕動して見える。

藤谷守の左目は、三年前の事故を起こした拍子に完全に視力を失っている。サングラスは、その潰れた左目を隠すための道具となっているのだ。

醜い傷跡を隠すためのサングラスに迂闊に触れた井之上順平の行為は、寝ている虎の尾を踏むに等しい危険な挑発となった。

「お願い、救急車を呼んで」

藤谷霞が金切り声をあげている。

しかしあたりの関心は、主に被害者ではなく加害者の方へ注がれている様だった。三年前の事故以来、すっかり大人しくなったように思えた藤谷守だが、狂犬ぶりは今でも健在のようだ。それを周囲に嫌というほど知らしめた。

藤谷守はまだ癇癪の虫がおさまらないらしく、地面に落ちている石をつかい、霞と井上青年が乗っていたアウディの窓という窓を粉砕してまわっている。

「もう止めにするんだ」新田が藤谷守の肩に手を添えてなだめた。「さっきも、君はあやうく人を殺すところだったじゃないか」

「殺すつもりならとっくに殺しているさ。なんなら、今からでもこの車ごと灰にしてやったって構わないんだよ」

「とにかくもう止めにしておくんだ。もう充分気は済んだろう」

「ねえ新田さん。いつも思っていたんだけど、あんたこそきっと人を殺したことがある人間なんでしょうね」

「唐突に、何を物騒なことを……」

「あんただけじゃない。本宮の叔父さんも藤谷の親父も、あんたらは皆、ある意味では人を殺す以上に残酷な人たちばかりだ。人を自分たちが描いた筋書きの中に閉じこめて、その人生すら無情に左右する。俺はあんたらとは違う。もうこれ以上は付き合いきれない」

藤谷守はそんなことを口走りながら、蒼みがかった空に向かい嬌声を上げ始めた。

「頼むからこれ以上、がっかりさせないでくれ守君。藤谷社長は、ゆくゆく君に会社を継がせるために君を養子に迎え入れたんだ。負けん気の人一倍強い君ならば、藤谷幸一郎が遺した汚名も名誉も、全て清濁併せ呑むことができると思ったからに違いない。私もそれに同感だった。なのに、今の君ときたら……」

「それは違うね、新田さん。あの当時、藤谷興産がうっかりと手を出した金融の方面で抱えた不良債権は、バブルが崩壊したあの時点で、ほぼ全てが完全に真っ黒に焦げ付いていたんだ。どれも回収のみこめないものばかりで、本来ならば経営上は、整理回収機構かどこかに二束三文でもいいから売り払うか、債権放棄をして赤字計上の手法をとった方が有意義なものばかりだった。だが藤谷の親父は俺に相手を地の果てまで追いかけ、どれだけ焦げ付いた債権を回収できるのか、そればかりを俺に期待していた。所詮は法律上の関係に過ぎない親子だった。俺はこの無鉄砲さを買われただけの、単なる道具に過ぎなかったのさ」

「たとえその時はそれが事実だとしても、結局君のやるべきことは一つだったはずじゃないのか。だいいち、君が好んで飛び込んだ世界だろう」

「言いたいことは分かっているさ。それと、言葉の戦いではどう転んだってあなたには勝てやしないことも」藤谷守はひどく自嘲じみた笑みを浮かべ嗤った。「ともかく俺はもう降りることにしたよ新田さん。これを機に俺の名は会社の役員からも抜いておいてくれ。俺にはこれ以上利用価値などないし、親父――いや、藤谷幸一郎が遺した四十億の資産など、全て夢幻に過ぎない。だから、あとは勝手にやっておくれよ」

「……そうか。もしや今回のことは、君が復帰できるいいきっかけになると思っていたのだが、残念だ。しかし、そうと判っても、我々が必要なことを知るための質問には答えてもらうよ。たとえば、亡くなった藤谷社長が公正証書により遺言を残したことについては、君もよく知っているはずだね。あれは確か、今から二年ほど前のことだったかな。当時、君はまだ怪我の治療をしている真っ最中だった」

「ああそうさ」

「その当時、藤谷社長が遺言を残そうとした際、目の見えなかった故人は、おそらく誰かに代筆を頼んだはずだ。して、その相手とは一体誰だったのだ。タイミング的に考えて、君でないことだけは確かなのだが」

「令子だ」と藤谷守は答えた。「令子はいわばスクラップ同然となった俺の代わりにここへ呼ばれた代役なのさ」

「へえ。代役といっても彼女は所詮女じゃないか。それに、君よりも若い」

「ハハハ、本当に知らなかったのかい? だって、考えてもみろよ。あの幸一郎伯父さんが、今更になってわざわざ呼び寄せるような存在だ。ただ代筆するだけのことなら、久美子小母さんにだって充分役割は果たせたはずだろう。令子はああ見えて法曹資格を持っている女なのさ。ここへ戻ってくるまでは、大阪でもそこそこ名前の通った法律事務所に所属していたらしい。それが事実なら、実際、俺や慎一なんかよりもよっぽど役に立つ」

それは新田も、その側で二人のやり取りを見守っていた本宮忠にとっても初めて耳にする事実だった。

救急車がやってきて、井之上順平の身柄が病院へと搬送されていった。――続く

つづき 「昏き貌 11話」

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