火曜サスペンス テーマソング

昏き貌の赤い文字バージョン

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陽の当たらない車内に散布された防黴剤の臭気と、人の呼気と体臭の入り乱れる地下鉄という空間が、昔から大の苦手だった。まだ学生の頃、行きたくもない大学を受験するために、父の言いつけ通りこの線に乗り、塾へ通ったものだ。

長男の自分を弁護士にし、次男の勇二を医者にするのだ。昔、よくそんな風に夢のような願望をうれしそうな顔をして親戚中に吹聴していたのを今でも覚えている。大学はおろか中学すらろくに出ていない父にとって、息子の自分を大学へやることは、母が自分を身籠ったころからの一つの目標であったという。

近鉄上本町駅から地下鉄千日前線へと乗り継いで、日本橋で堺筋線へと乗り継ぎ北浜で降りた。階段を上り地上へ出ると、都会の刺激臭が鼻を衝いた。

少々様変わりしているが、昔よくランチで世話になった今橋の交差点にあるカフェはまだ健在だった。堺筋を南に歩き、高麗橋で路地を折れた。土佐堀通りと中央大通り、堺筋と四ツ橋筋を対辺とした四角形の中は、気取った証券マンや安月給の銀行員を相手にした居酒屋やバーでひしめいている。

キタやミナミほどではないにしろ、もはや裏通りと呼べる筋は一本もないこの辺りだが、ランチタイムが終わっているせいか、店のシャッターはほとんどが降りて閑散としていた。

当時道案内の目印として使っていた旧信和銀行の跡地は銀行の合併によっても他社に淘汰されたのか、また違う銀行の看板が掲げられている。コンビニの跡地はまた違うコンビニの看板がかかっていて、潰れた居酒屋の跡地にはまた違う名前の居酒屋が看板を掲げて同じ臭いを漂わせている。

石を投げれば弁護士か司法書士に当たると言われるこの界隈にも、同期の司法書士は多く居る。中には自分と同様に独立を果たした人間もいれば、いまだ居候の身に甘んじている者も多くいるだろう。

午後二時にオープンするその居酒屋は、ランチタイムの戦争を裂け、一足早い居酒の客を獲ることで他店と鎬を削っている。ここを好んで使うようになった理由は、新しい物好きの同年代の客層が少なく、それだけに同業者と鉢合わせることも滅多にないからだった。

あと、炭火を使い、忙しそうにもくもくと煙をたてているような居酒屋は嫌いだった。

なにせ椅子に座るだけでも背広に鶏肉の臭いが憑きそうだ。

「おや、誰か思えば、えらい久しぶりやないか」

おやじが言い、本宮慎一は「麦酒をちょうだい」と言った。

「ええなあ、相変わらず」

「何がだい」

「昼から飲めるやなんて、ほんまにええ身分やわ」

一杯目のアルコールが喉で泡をたてながら胃の奥へ流れて行く。

続けざまにもう一杯ビールを流し込んでから、日本酒か焼酎をストレートで肝臓に送り込むのが、本宮慎一が一日の内で一番楽しみにしている行事だった。

「何か用事で来たんかいな。たしか伊賀上野の方へ引っ越した言うてたやろ」

「用が無けりゃこんなところへは来ないさ」二杯目を飲み干すと、血の中が濃くなるような、いつもの感覚を得ることができた。

「よう知らんけど、酒が手放せんとこは変わらんみたいやな」

「いいから酒を注いでくれってば。焼酎のボトルがまだ置いてあるはずだろう」

「そんなもん、しばらく来んから、とっくの昔に捨てたわい」

言いながらおやじは手でコップを飲むしぐさをし、ひゃひゃひゃと嗤った。

「ならショットで寄越してくれ」

「そういえば、あんたがよう一緒に連れてきてくれてたお嬢ちゃん。あの娘も近頃めっきり見いひんようになったな」

「そりゃそうだろうな」

「そりゃそうっていうと? あんたら、結婚でもしたのか」

「いや、別にそういうわけでは」

「あの姉ちゃん、綺麗な女だったな。っちゅうことは、あの娘はあんたのコレだったわけかいね」

「やけに詮索するじゃないか。当時は一つもそんなことは訊いてこなかったくせに」

「そりゃあ当時は大切なお客様の一人だったわけだからな、あんたも」

「じゃあ、今は違うっていうのかい」

「いやまあ、そりゃあ、来てくれりゃ歓迎はするけどさ。だけど今は伊賀上野に住んでるってこたあ、そう滅多に来てくれるわけでもねえだろうに」

「……」

「ごめんごめん、言い過ぎたよ」言いながらおやじは爪の黄色い手で首を揉みながらへへへと嗤った。「相変わらず繊細な男だな、あんた。冗談がまるで通じねえ」

「そんなんだから、この店は繁盛しないのさ」

「分ってねえな」とおやじは首をかしげている。「だからあんたみたいな客が来てくれるわけじゃねえかよ」

「帰る」と慎一は席を立った。

「気を悪くするなってば。一杯おごるから。なにせ久しぶりなんだ。ゆっくりしていけよ」

「悪いが急いでいるんでな」

「ほう、伊賀上野から大阪くんだりまでやってきて、法律の人が酒を食らってからどんな何の用事があるっていうんだい」

「あんたには関係ないだろう」

少なくとも下世話な居酒屋の店主に関係のある用件ではない。

「関係なくたって、俺には感謝してもらいてえもんだよ。なにせあんたら、この店で偶然出会ったんだ。もしも結婚してるってなら、あんたらの幸せはこの店があってのものだねってことになるわけだからな」

 


愛と金と殺しの物語 不動産事件ものサスペンス小説 「昏き貌」


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