火曜サスペンス テーマソング

昏き貌の赤い文字バージョン

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第36話


   言われた通り、休眠していた会社の閉鎖登記申請を済ませたのち、本宮慎一は上本町の株式会社アクティーへ向かった。閉鎖したのは死んだ藤谷幸一郎が先妻葉月に対して債権を有していた会社だ。まだ遺産分割協議が済まない内にだが、それが藤谷令子のきっての願いだった。

  ガラス張りのアルミ扉を開くと、昔から呼び鈴代わりにぶら下げている風鈴がちりんと鳴った。
  慎一が小学生の頃、夏休みの課題で作った品物だった。案外長持ちするものだと少し感心した。
  父の事務所に足を運ぶのは二年ぶりになるだろうか。

  相変わらず壁を白いペンキで塗っただけの安普請の事務所のあちこちに、図面やブルーマップといった資料の類が所狭しと散乱している。

  部屋のど真ん中に古いビリヤード台が置いてあるのは、本来無趣味な父がときどき父が仕事で考えが煮詰まった際、頭の中をリフレッシュさせるために、知人の勧めで始めたのがきっかけだと昔聞かされたことがある。

  といって、父がそれを趣味にしている様子はこれまでになかったが、ここにだけは仕事に関する備品が一切れも散乱していないところを見ると、その習慣は今でも変わっていないらしい。

  つまり、もう還暦がすぐ近くにまで見えてきた今でもここで瞑想し、まだ国内外の石油元売りや小売り業者を相手に、年に数億の金を搾り取る算段を練っているというわけだ。

  本宮慎一が伊賀上野に本拠地を変更して以来、はや六年が経過しようとしている。その間、伯父の藤谷幸一郎には随分と世話になった。彼の甥っ子だという肩書きそれ一つで、違う街にやってきた余所者が比較的容易に仕事を獲ることができた。

  藤谷守の存在も大きかったと思っている。周りには恵まれていた。それは確かな事実といえる。だが本宮慎一が男としてもう一皮剥けるには、何かの要素が一つ足りないらしい。
 

父の持つ人脈を、最初からあてにしていたわけではなかった。だが苦心をして手に入れた司法書士の肩書も、雇われの身では 食っていくのが精いっぱいというのが今の世の中だ。一つの事務所に居候として世話になり、長く務めたところで、世話になっている事務所のオーナーに組織を でかく構える意思と能力がなければ、そこで雇われている居候の司法書士が陽の目を浴びる可能性はほぼ皆無ときている。

といって、登記一つで幾らといった手数料商売に対し熱心に精を出したところで、一人でやっていたのでは天井はいとも簡単に手の届く位置に見えてきてしまう。

  慎一はつくづく思う。世の中の人間は、成功を手にする人間とそうでない人間の二種類に分別されていると。
  人によってそれは努力の結果であったり、新しい着想との出会いに恵まれていたりと、要因はさまざまだが、どれにも共通していえるのは、成功を手に入れた人 間は、人生のどこかでターニングポイントのようなものを迎え、その時になにがしか鍵のようなものを手に入れているということ。そして人は、その鍵を手に入 れるために、時として悪魔に魂を売ることすら厭わないものだ。

  父の場合、それを一体いつどのタイミングで手に入れたのだろう。
  石油の販売に関する地面開発における利権。
  年に数十億もの金が飛び交う市場の大半をたった二人で牛耳っているのが株式会社アクティーだ。

  たしかに誰の手にも負える仕事ではない。それは心得ている。だが、誰しもが喉から手が出るほど欲しい利権であることもまた確かだ。

  父は、各企業のトップにまで上りつめた人間と旧くから繋がってきた。
  父は彼らが出世をするための手伝いを忠実に行い、そして彼らは父を裏切らなかった。
  単にそれだけのことだろうか。
  いや。
「慎一君かい?」
  声の主は新田専務だった。

  新田専務はうず高く積み上げられた書類の束から顔を出し、丸眼鏡の隙間から上目遣いに本宮慎一の姿を確かめると、「隣の部屋に寿司があるから、適当につまんでいなさいな」と親指を縦にして父の居る方角をさした。

「また寿司ですか」

  言うと寿司好きの新田専務は、「結局、これが一番手軽なんだ」と、インク切れを起こしたレーザープリンターに二度三度と平手打ちをしてから、同じビルの一 階に入っている事務用品屋に電話をかけ、まるで秘書を扱うような口ぶりですぐに換えのトナーを持ってくるよう受話器越しに指示を出している。

  確かこのビルの一階にテナントに客をつけた上で事務用品屋をひっぱってきたのは新田専務だった。
「相変わらず人を使うのがお上手ですね」と慎一は言った。「事務員の一人ぐらい雇えばいいのに」
  金ならたんまりと持っているはずでしょう。もちろん、それは口に出しはしなかったけれども。

「電 話番なら私一人で十分だ」と専務は歯をむき出しにして笑った。「君も知っているとおり、我々の  仕事は他の誰かに継承しようとして出来る質の仕事ではないのだよ。経験則からも言えるのだが、企業が我々のような存在にある要求を一つしてくるとして、そ こに立ち並ぶハードルを悉くをクリアできる人材を見つけるには、雇用という手段ではとうてい不可能なのだ」

「僕は、事務員の一人ぐらい雇えばいかがですかと、そう軽く進言しただけのつもりでいるのですが」
「おやそれは失礼した」

  そのとき、窓を背にキーボードを叩いていた父がようやく立ち上がり、「その顔色はまたどこかで呑んでいたのか」と、息子の顔にぐるりと一周視線を這わせるなりそう言った。

「顔 見知りの店で、ちょっと一杯ひっかけてきただけさ」酒気を帯びたげっぷが喉をこじ開けようとするのをようやく堪えながら、本宮慎一は言った。「それより、 勇二のやつはどうしたんだい。最近ではあいつがこの事務所に出入りしているという風にきいているけれど。本当なのかい」

「事実だ。手伝いに来てもらっている」
「なぜだい」
「なぜというと」
  なぜなのだ。
  それはこちらが訊きたいことだった。
「俺のときは断られた。なぜ勇二はいいというのさ」
  長男の自分ではなく。
「雇ってくれと頼まれて雇っているわけではない」と父は言った。

  だが、「だったらどうしてここに勇二が必要だったというのさ」という長男の問いに対し、父は「今夜は久しぶりに帰ってこい。家で母さんが飯を用意して待ってくれているから」
  そうとしか答えなかった。

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