福島

日ごろお世話になっている大阪市福島区のことをもっとよく知ろう。というわけで、ブログに書き溜める福島のお話。大阪市福島区のホームページを頼りに福島のことをいろいろ書いていってみようかと。

まずは、福島の歴史から。

福島と野田藤について野田藤

福島区のHPによると、貞冶3年(西暦1364年)に、南北朝時代、室町幕府の2代将軍足利義詮(よしあきら)が富士の花見に訪れているとあります。

*足利義詮とは
-------------------------------
足利 義詮は、初代将軍足利尊氏の嫡男。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子。足利尊氏による足利幕府開府後、足利家の執事である高師直と尊氏の弟の足利直義の対立が激化して観応の擾乱が起こり、師直のクーデタにより直義が失脚すると、義詮は京都へ呼び戻され、直義に代わり幕府の政務を任される。正平6年、観応2年(1351年)8月には、尊氏が直義派に対抗するために義詮と共に南朝に降伏し、11月に年号を南朝の「正平」に統一する正平一統が行われた。翌年に南朝の北畠親房や楠木正儀らが京都へ侵攻すると、義詮は京を逃れて近江国へ避難した。その結果、光厳上皇、光明上皇、崇光天皇の三上皇を奪われたが、観応の年号を復活させるとともに兵を募って京都を奪還し、三種の神器の無い状態で新たに後光厳天皇の即位を実現させる。また、正平8年、文和2年(1353年)6月にも足利直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われている。
足利義詮三条坊門に邸宅を営んだため「坊門殿」と呼ばれた人で、室町季顕から「花亭」を買い受け別邸としていた。のちに「花亭」は足利家より崇光上皇に献上され、仙洞御所となった。足利義満は再び天皇家から「花亭」を譲り受け、邸宅を営んだ。これが世にいう「花の御所」である。以上、足利義詮について。

------------------------------------

また、文禄3(西暦1594)年には太閤秀吉も、千利休・曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)を供にして藤の花見に訪れ、茶会を開いたといわれている。
明治以後、野田藤は衰え、一時はほとんど絶滅したような状態となっていたが、大阪福島ライオンズクラブが中心となって藤の再生運動を行い、昭和46(1971)年に藤家に残っていた古木に接ぎ木を行い成功した。
今では区内各所で春に野田藤を見ることができるようになり、「区の花」にも指定されています。
ちなみに「ノダフジ」と命名されたのは明治になってからであり、植物学者牧野藤太郎(まきのふじたろう)博士によって命名されました。

21人討死 について
天文2年(西暦1533年)福島・野田を訪れた本願寺第十世証如上人は、近江の佐々木六角定頼(ささきろっかくさだより)の軍勢によって襲撃された。
野田・福島の門徒の百姓衆が鋤・鍬・鎌を持って敵兵に立ち向かい、証如上人(しょうにょしょうにん)を護るために命をかけて戦い紀州に逃したが、その際、信徒21人が犠牲になった。
後に、このことを知った証如上人は、お礼を御書に認め、犠牲者の菩提を弔いました。

*証如上人とは
------------------------------
証如(しょうにょ)は、戦国時代の浄土真宗の僧。諱は光教。院号は信受院。本願寺第10世。本願寺第8世宗主蓮如の曾孫。証如の代に本願寺は、加賀一向一揆の調停という形で北陸地方の門徒集団への介入を深めた。

まーそこそこ由緒正しい街ということにはなってきますが、今の時点では興味をそそられるというほどのところまでは行ってません。

次回の記事をお楽しみに!現代の野田藤