大阪福島にある豚肉居酒屋とん彩やが、大阪名所名物をご紹介するこのコーナー。
いつか当店も、大阪鍋料理といえば 「安くて美味しい」とん彩や-大阪福島店しかありえないと世間の皆様に言って頂けるよう、日々精進いたしマッスル(肉の意)。
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コンペイトウプチミュージアム堺
歴史ザ「大阪」大阪とは、日本の近畿地方の地名のことをさす。西日本最大の都市の大阪市と、大阪市を府庁所在地とする大阪府を指す地域名称で、広い意味では大阪市を中心とした京阪神(畿内、大阪都市圏、関西圏)をまとめて呼ぶときに使われる。関西の経済・文化の中心地で、古くは大坂と表記した。古都・副都としての歴史を持ち、現在も首都東京に次ぐ都市として、経済、文化、バックアップ面で重要な役割を担っている(大阪データ)。

ザ「大阪」大阪市は、近畿地方の行政・経済・文化・交通の中心都市であり、市域を中心として、大阪都市圏および京阪神大都市圏が形成されている。大阪市の2007年度の市内総生産は約21兆円で、政令指定都市中最大であり2倍から3倍の人口を擁する埼玉県や北海道、兵庫県など1つの道府県の県内総生産を上回る。京阪神大都市圏の圏内総生産は、国内では首都圏に次ぎ、世界的にも上位にある(大阪データ)。

ザ「大阪」また大阪 市内の従業者数、事業所数、上場企業本社数は共に東京23区に次いで国内2位となっている。夜間人口は横浜市に次いで全国2位の約267万人、人口密度は全国の市で5位(政令指定都市中で1位)、昼間人口は市外から多くの通勤通学者が流入するため東京23区に次ぐ約369万人となっている。近年では都心回帰が顕著で、中心部三区を中心に増加傾向にある(大阪データ)。

ザ「大阪」大阪市は古代から瀬戸内海・大阪湾に面した当時の国際的な港、住吉津や難波津などの外交に関連した港湾都市として栄え、古代の首都としての難波宮、難波京などの都城も造営された(大阪データ)。

ザ「大阪」宗教的にも中心地であることも多く、中世には浄土真宗の本山であった石山本願寺が置かれ、寺内町として発展した。近世初期には豊臣秀吉が大坂城を築城し、城下町が整備された。江戸時代には天領となり、江戸をしのぐ経済・交通・金融・商業の中心地として発展。天下の台所と称され、豊かな町人文化を育んだ(大阪データ)。

ザ「大阪」明治時代に入ると、繊維工業(船場の繊維街などが有名)を中心とした工業都市となり、「東洋のマンチェスター」、「煙の都」と称された。戦後も長らく経済に関しては東京をリードする立場が続き、特に1990年代まで9大総合商社のうち6社が大阪本社といった構図がこれを象徴していたが、これも相次ぐ再編や東京移転で過去のものとなった(大阪データ)。

ザ「大阪」第二次世界大戦後には、重化学工業の比重が高まり、今日も阪神工業地帯の中核を担う。他方で、卸売業を中心に商業活動も活発で、道修町(薬種)、松屋町(玩具)、本町(繊維)など市内各所に問屋街が発達している。また中之島や北浜界隈には、金融街が形成されている。市役所の所在する中之島から大坂城にかけての地域には、官公庁や公的機関が数多く立地している(大阪データ)。

ザ「大阪」2012年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第47位の都市と評価されており、日本では東京に次いで第2位である。また2012年3月、イギリスのシンクタンクにより、世界第24位の金融センターと評価されている(大阪データ)。
【住所】
大阪府堺市堺区南島町4-1488-12
【電話番号】
072-282-2790
【ジャンル】
ミュージアム
【何が出来るかな?】
コンペイトウ作り体験、見学、買い物
【料金】
800円 (2歳以上、付添いも有料、八尾ミュージアムは1000円)
【開園時間】
午前10時~午後5時まで。(体験は午前と午後の2部制)
【定休日】
要問合せ
【予約】
必要(3名以上)
【駐車場】
2台 無料
【地図】
南海本線「七道」駅から徒歩8分

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【見所】

いろいろなコンペ―トウを見学。
手作り体験もできるよ~

ごくしょう

   

三宅 實著「思い出の記」より

 「こんぺいとう」、もともと日本でできたものではなく
遥かポルトガルから伝わった「南蛮渡来」の輸入菓子である。

 こんぺいとうにまつわるお話としては
1569年(永録12年)に日本にキリスト教の布教のためにやってきた
ルイス・フロイスという宣教師が、時代の権力者であった織田信長に布教許可をもらうため
ポルトガルから持ってきたお菓子を献上したことが有名になつています。

 16世紀の頃、砂糖は貴重な食品であつたと思われ
ポルトガルでも貝や魚の形をした小粒のお菓子を、司祭や貴族が食べていたといわれている。

 こんぺいとうの作り方は、江戸時代に井原西鶴が書いた
「日本永代蔵」(1688年)に記されている。
そこには,「胡麻に砂糖を入れたものを煎りながら乾燥させ
更に鍋に入れ暖めると胡麻から砂糖が吹き出してこんぺいとうになる。」と記されている。

 この前段のところは、恐らくこんぺいとうのセンタ-(核)を作る工程を言っており
後段のところはわかりにくく適切な表現でないように思われる。

 当時のこんぺいとうの大きさはわからないが
直径2cmのこんぺいとうをつくるのに、およそ2週間かかるのであるから
その頃多忙と思える西鶴が少しばかり作り方を見たとしても
よくわからなかったのは仕方がないと思われる。

 今の作り方に近い製法が書かれてあるのが「古今名物御前菓子秘伝抄」。
それには、「砂糖を煮て溶かしたものを、平鍋に入れた芥子の実に少しずつかけていく。」とある。

 江戸時代の後期の「守貞漫稿」には、こんぺいとう作りのむずかしさが書かれてある。
「大小あり」とあることから,角(つの)が同じように出ている
均一な大きさのものをつくるのに苦労していた様子が伺える。

 現代のこんぺいとうはと言うと、近代的かつ衛生的な工場で
自動機械により製造されている。
釜底は二重底になつていて,その間にガスバ-ナ-がありそれにより加熱をする。
平釜の直径は約2mあり,およそ30度くらい傾いて据られており、それがゆっくりと回っている。

 こんぺいとうをつくるには、最初に釜の中にそれの芯(核)となるものを入れておく。
こんぺいとうの芯は、昔は「けしの実」がつかわれていたが
現在ではグラニュ-糖を使うのが一般的となっており
それに砂糖3・水1の比率の砂糖液を少しずつ掛けていくのである。
この「掛ける」という作業から、
「こんぺいとう」や「チャイナ・マ-ブル」などのお菓子のことを「掛け物」とよぶ。

 このチャイナ・マ-ブルは、丸くて固いお菓子で
その表面のツヤが中国の陶器に似ていることからその名がついたといわれており
この別種に「 変わり玉」と呼ばれ、口の中でなめていると色が変わることから
そのように呼び名がついたと思われる。

 話をこんぺいとうの製造のことにもどすが
この単純そうな蜜掛け工程を10日間ほど続ければこんぺいとうになるわけである。
ただ,つぎの2点について注意しないときれいなこんぺいとうにはならない。

 1つは、釜の傾斜角度で、核が小さい時には傾斜角を多くかたむけ
大きい粒になってきたら角度をゆるくするのである。

 2つ目には、砂糖液の掛け量と加熱の加減である。
火が強過ぎるとツヤのあるきれいな製品にならないし
砂糖液を早く掛け過ぎると釜の底に砂糖がくっつき
釜の傾斜があっても釜内の品が上下に入れ替わらないので
角の出来具合いも悪くなるし、ツヤもないものになる。

「掛け物」の製品価値はツヤにあるといわれ
このコツを覚えるのに相当な年季を要するわけなのである。
 



   

<こんぺいとう>は,砂糖菓子のひとつできらってぃ
その名の由来はスペイン語の「Confeito」(コンフェイト)からきている。

1543年(天文12年)にポルトガル人が日本にあらわれたことから
南ヨ-ロツパの影響を受けた「南蛮文化」が開花する。
時代は安土桃山から江戸初期にかけてのことである。
16~17世紀にかけて,「南蛮菓子」がもたらされることとなるが、
「南蛮菓子」という言葉は,慶長13年(1608年)バテレンが正月の挨拶として、
「南蛮菓子一折」を持参したと,薩摩藩の「薩藩旧記雑録」に記されている。
「南蛮菓子」としては、「コンフェイト・カステラ・ボ-ロ」などが,その代表とされているが
他の文献には「アルヘル・カルメル・パアスリ・ヒリヨウス」などのもある。

種子島に漂着したポルトガル人達は
キリスト教の布教を目的にした宣教師と通商の拡大を目指した貿易商人であつた。
その6年後の1549年(天文18年)には,ザビエルが鹿児島に到着
遅れること20年,フロイスは永録12年(1569年)に織田信長に会つており
そのときの献上品が「コンフェイト」なのである。

ところが,寛永16年(1639年)江戸幕府は,キリスト教の禁止を徹底させようと
ポルトガル船の来航禁止を目的とした鎖国令を出すのである。
これにより,コンフェイトの輸入が一時とだえるのであるが
唐人によつてその製法が再び伝来され、日本人が自らの技術として製造していくのである。
このことは、井原西鶴の「日本永代蔵」(1688年)の中で
長崎の町人が「こんぺいとう」の製造に2年余りも取組み、遂に成功し大金持ちになる逸話が記されている。
そして、江戸時代末期の頃には各地にこんぺいとうの製法が伝わっていき、盛んになっていく。

江戸時代後期に手づくりされていたこんぺいとうは、明治の後期になると少しずつ機械化されていく。

こんぺいとうの機械について調べると、特許としては明治36年に
「金米糖製造器(回転輪釜)」の名で出願されており
この回転式製造機械を発明したのは村上辰三郎と言う。
この特許権を買い取り、こんぺいとうの量産をしたのが三谷為助である。
彼は,こんぺいとうの製造技術者であった東海慶太郎とともに、大阪西区に回転釜20台を据えて
「機械製金米糖」と称して大々的に売り出した。
この頃の加熱の方式としてはコークスが使われており、この火加減の調節が難しく
こんぺいとうをつくる職人は何年もかけ技術を習得したといわれている。

では,ポルトガルにおいてコンフェイトはどのような運命を辿っているのか。
勿論、今も作られている。ポルトガル本土のcoinbra(コインブラ)でも製造されてるし
また離島テルセイラ島にも数軒の工場があり、営々と作り続けられているのには
やはりコンフェイトが人々のこころに訴える何かがあるということであろう。


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とん鍋 とん串 とん彩や-大阪福島店
大阪市福島区福島5丁目10-13
06-6456-1038
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