大阪福島にある豚肉居酒屋とん彩やが、大阪の名所名物をご紹介するこのコーナー。
いつか当店も、大阪で鍋料理といえば 「安くて美味しい」とん彩や-大阪福島店しかありえないと世間の皆様に言って頂けるよう、日々精進いたしマッスル(肉の意)。
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コンペイトウプチミュージアム堺
【住所】
大阪府堺市堺区南島町4-1488-12
【電話番号】
072-282-2790
【ジャンル】
ミュージアム
【何が出来るかな?】
コンペイトウ作り体験、見学、買い物
【料金】
800円 (2歳以上、付添いも有料、八尾ミュージアムは1000円)
【開園時間】
午前10時~午後5時まで。(体験は午前と午後の2部制)
【定休日】
要問合せ
【予約】
必要(3名以上)
【駐車場】
2台 無料
【地図】
南海本線「七道」駅から徒歩8分
大きな地図で見る
【見所】
いろいろなコンペ―トウを見学。
手作り体験もできるよ~
三宅 實著「思い出の記」より
「こんぺいとう」、もともと日本でできたものではなく
遥かポルトガルから伝わった「南蛮渡来」の輸入菓子である。
こんぺいとうにまつわるお話としては
1569年(永録12年)に日本にキリスト教の布教のためにやってきた
ルイス・フロイスという宣教師が、時代の権力者であった織田信長に布教許可をもらうため
ポルトガルから持ってきたお菓子を献上したことが有名になつています。
16世紀の頃、砂糖は貴重な食品であつたと思われ
ポルトガルでも貝や魚の形をした小粒のお菓子を、司祭や貴族が食べていたといわれている。
こんぺいとうの作り方は、江戸時代に井原西鶴が書いた
「日本永代蔵」(1688年)に記されている。
そこには,「胡麻に砂糖を入れたものを煎りながら乾燥させ
更に鍋に入れ暖めると胡麻から砂糖が吹き出してこんぺいとうになる。」と記されている。
この前段のところは、恐らくこんぺいとうのセンタ-(核)を作る工程を言っており
後段のところはわかりにくく適切な表現でないように思われる。
当時のこんぺいとうの大きさはわからないが
直径2cmのこんぺいとうをつくるのに、およそ2週間かかるのであるから
その頃多忙と思える西鶴が少しばかり作り方を見たとしても
よくわからなかったのは仕方がないと思われる。
今の作り方に近い製法が書かれてあるのが「古今名物御前菓子秘伝抄」。
それには、「砂糖を煮て溶かしたものを、平鍋に入れた芥子の実に少しずつかけていく。」とある。
江戸時代の後期の「守貞漫稿」には、こんぺいとう作りのむずかしさが書かれてある。
「大小あり」とあることから,角(つの)が同じように出ている
均一な大きさのものをつくるのに苦労していた様子が伺える。
現代のこんぺいとうはと言うと、近代的かつ衛生的な工場で
自動機械により製造されている。
釜底は二重底になつていて,その間にガスバ-ナ-がありそれにより加熱をする。
平釜の直径は約2mあり,およそ30度くらい傾いて据られており、それがゆっくりと回っている。
こんぺいとうをつくるには、最初に釜の中にそれの芯(核)となるものを入れておく。
こんぺいとうの芯は、昔は「けしの実」がつかわれていたが
現在ではグラニュ-糖を使うのが一般的となっており
それに砂糖3・水1の比率の砂糖液を少しずつ掛けていくのである。
この「掛ける」という作業から、
「こんぺいとう」や「チャイナ・マ-ブル」などのお菓子のことを「掛け物」とよぶ。
このチャイナ・マ-ブルは、丸くて固いお菓子で
その表面のツヤが中国の陶器に似ていることからその名がついたといわれており
この別種に「 変わり玉」と呼ばれ、口の中でなめていると色が変わることから
そのように呼び名がついたと思われる。
話をこんぺいとうの製造のことにもどすが
この単純そうな蜜掛け工程を10日間ほど続ければこんぺいとうになるわけである。
ただ,つぎの2点について注意しないときれいなこんぺいとうにはならない。
1つは、釜の傾斜角度で、核が小さい時には傾斜角を多くかたむけ
大きい粒になってきたら角度をゆるくするのである。
2つ目には、砂糖液の掛け量と加熱の加減である。
火が強過ぎるとツヤのあるきれいな製品にならないし
砂糖液を早く掛け過ぎると釜の底に砂糖がくっつき
釜の傾斜があっても釜内の品が上下に入れ替わらないので
角の出来具合いも悪くなるし、ツヤもないものになる。
「掛け物」の製品価値はツヤにあるといわれ
このコツを覚えるのに相当な年季を要するわけなのである。
<こんぺいとう>は,砂糖菓子のひとつで
その名の由来はスペイン語の「Confeito」(コンフェイト)からきている。
1543年(天文12年)にポルトガル人が日本にあらわれたことから
南ヨ-ロツパの影響を受けた「南蛮文化」が開花する。
時代は安土桃山から江戸初期にかけてのことである。
16~17世紀にかけて,「南蛮菓子」がもたらされることとなるが、
「南蛮菓子」という言葉は,慶長13年(1608年)バテレンが正月の挨拶として、
「南蛮菓子一折」を持参したと,薩摩藩の「薩藩旧記雑録」に記されている。
「南蛮菓子」としては、「コンフェイト・カステラ・ボ-ロ」などが,その代表とされているが
他の文献には「アルヘル・カルメル・パアスリ・ヒリヨウス」などのもある。
種子島に漂着したポルトガル人達は
キリスト教の布教を目的にした宣教師と通商の拡大を目指した貿易商人であつた。
その6年後の1549年(天文18年)には,ザビエルが鹿児島に到着
遅れること20年,フロイスは永録12年(1569年)に織田信長に会つており
そのときの献上品が「コンフェイト」なのである。
ところが,寛永16年(1639年)江戸幕府は,キリスト教の禁止を徹底させようと
ポルトガル船の来航禁止を目的とした鎖国令を出すのである。
これにより,コンフェイトの輸入が一時とだえるのであるが
唐人によつてその製法が再び伝来され、日本人が自らの技術として製造していくのである。
このことは、井原西鶴の「日本永代蔵」(1688年)の中で
長崎の町人が「こんぺいとう」の製造に2年余りも取組み、遂に成功し大金持ちになる逸話が記されている。
そして、江戸時代末期の頃には各地にこんぺいとうの製法が伝わっていき、盛んになっていく。
江戸時代後期に手づくりされていたこんぺいとうは、明治の後期になると少しずつ機械化されていく。
こんぺいとうの機械について調べると、特許としては明治36年に
「金米糖製造器(回転輪釜)」の名で出願されており
この回転式製造機械を発明したのは村上辰三郎と言う。
この特許権を買い取り、こんぺいとうの量産をしたのが三谷為助である。
彼は,こんぺいとうの製造技術者であった東海慶太郎とともに、大阪西区に回転釜20台を据えて
「機械製金米糖」と称して大々的に売り出した。
この頃の加熱の方式としてはコークスが使われており、この火加減の調節が難しく
こんぺいとうをつくる職人は何年もかけ技術を習得したといわれている。
では,ポルトガルにおいてコンフェイトはどのような運命を辿っているのか。
勿論、今も作られている。ポルトガル本土のcoinbra(コインブラ)でも製造されてるし
また離島テルセイラ島にも数軒の工場があり、営々と作り続けられているのには
やはりコンフェイトが人々のこころに訴える何かがあるということであろう。
大阪の名所・名物を紹介するコーナー【目次】
おでかけ帰りはぜひ当店へ!
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とん鍋 とん串 とん彩や-大阪福島店
大阪市福島区福島5丁目10-13
06-6456-1038
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いつか当店も、大阪で鍋料理といえば 「安くて美味しい」とん彩や-大阪福島店しかありえないと世間の皆様に言って頂けるよう、日々精進いたしマッスル(肉の意)。
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コンペイトウプチミュージアム堺
【住所】
大阪府堺市堺区南島町4-1488-12
【電話番号】
072-282-2790
【ジャンル】
ミュージアム
【何が出来るかな?】
コンペイトウ作り体験、見学、買い物
【料金】
800円 (2歳以上、付添いも有料、八尾ミュージアムは1000円)
【開園時間】
午前10時~午後5時まで。(体験は午前と午後の2部制)
【定休日】
要問合せ
【予約】
必要(3名以上)
【駐車場】
2台 無料
【地図】
南海本線「七道」駅から徒歩8分
大きな地図で見る
【見所】
いろいろなコンペ―トウを見学。
手作り体験もできるよ~
三宅 實著「思い出の記」より
「こんぺいとう」、もともと日本でできたものではなく
遥かポルトガルから伝わった「南蛮渡来」の輸入菓子である。
こんぺいとうにまつわるお話としては
1569年(永録12年)に日本にキリスト教の布教のためにやってきた
ルイス・フロイスという宣教師が、時代の権力者であった織田信長に布教許可をもらうため
ポルトガルから持ってきたお菓子を献上したことが有名になつています。
16世紀の頃、砂糖は貴重な食品であつたと思われ
ポルトガルでも貝や魚の形をした小粒のお菓子を、司祭や貴族が食べていたといわれている。
こんぺいとうの作り方は、江戸時代に井原西鶴が書いた
「日本永代蔵」(1688年)に記されている。
そこには,「胡麻に砂糖を入れたものを煎りながら乾燥させ
更に鍋に入れ暖めると胡麻から砂糖が吹き出してこんぺいとうになる。」と記されている。
この前段のところは、恐らくこんぺいとうのセンタ-(核)を作る工程を言っており
後段のところはわかりにくく適切な表現でないように思われる。
当時のこんぺいとうの大きさはわからないが
直径2cmのこんぺいとうをつくるのに、およそ2週間かかるのであるから
その頃多忙と思える西鶴が少しばかり作り方を見たとしても
よくわからなかったのは仕方がないと思われる。
今の作り方に近い製法が書かれてあるのが「古今名物御前菓子秘伝抄」。
それには、「砂糖を煮て溶かしたものを、平鍋に入れた芥子の実に少しずつかけていく。」とある。
江戸時代の後期の「守貞漫稿」には、こんぺいとう作りのむずかしさが書かれてある。
「大小あり」とあることから,角(つの)が同じように出ている
均一な大きさのものをつくるのに苦労していた様子が伺える。
現代のこんぺいとうはと言うと、近代的かつ衛生的な工場で
自動機械により製造されている。
釜底は二重底になつていて,その間にガスバ-ナ-がありそれにより加熱をする。
平釜の直径は約2mあり,およそ30度くらい傾いて据られており、それがゆっくりと回っている。
こんぺいとうをつくるには、最初に釜の中にそれの芯(核)となるものを入れておく。
こんぺいとうの芯は、昔は「けしの実」がつかわれていたが
現在ではグラニュ-糖を使うのが一般的となっており
それに砂糖3・水1の比率の砂糖液を少しずつ掛けていくのである。
この「掛ける」という作業から、
「こんぺいとう」や「チャイナ・マ-ブル」などのお菓子のことを「掛け物」とよぶ。
このチャイナ・マ-ブルは、丸くて固いお菓子で
その表面のツヤが中国の陶器に似ていることからその名がついたといわれており
この別種に「 変わり玉」と呼ばれ、口の中でなめていると色が変わることから
そのように呼び名がついたと思われる。
話をこんぺいとうの製造のことにもどすが
この単純そうな蜜掛け工程を10日間ほど続ければこんぺいとうになるわけである。
ただ,つぎの2点について注意しないときれいなこんぺいとうにはならない。
1つは、釜の傾斜角度で、核が小さい時には傾斜角を多くかたむけ
大きい粒になってきたら角度をゆるくするのである。
2つ目には、砂糖液の掛け量と加熱の加減である。
火が強過ぎるとツヤのあるきれいな製品にならないし
砂糖液を早く掛け過ぎると釜の底に砂糖がくっつき
釜の傾斜があっても釜内の品が上下に入れ替わらないので
角の出来具合いも悪くなるし、ツヤもないものになる。
「掛け物」の製品価値はツヤにあるといわれ
このコツを覚えるのに相当な年季を要するわけなのである。
<こんぺいとう>は,砂糖菓子のひとつで
その名の由来はスペイン語の「Confeito」(コンフェイト)からきている。
1543年(天文12年)にポルトガル人が日本にあらわれたことから
南ヨ-ロツパの影響を受けた「南蛮文化」が開花する。
時代は安土桃山から江戸初期にかけてのことである。
16~17世紀にかけて,「南蛮菓子」がもたらされることとなるが、
「南蛮菓子」という言葉は,慶長13年(1608年)バテレンが正月の挨拶として、
「南蛮菓子一折」を持参したと,薩摩藩の「薩藩旧記雑録」に記されている。
「南蛮菓子」としては、「コンフェイト・カステラ・ボ-ロ」などが,その代表とされているが
他の文献には「アルヘル・カルメル・パアスリ・ヒリヨウス」などのもある。
種子島に漂着したポルトガル人達は
キリスト教の布教を目的にした宣教師と通商の拡大を目指した貿易商人であつた。
その6年後の1549年(天文18年)には,ザビエルが鹿児島に到着
遅れること20年,フロイスは永録12年(1569年)に織田信長に会つており
そのときの献上品が「コンフェイト」なのである。
ところが,寛永16年(1639年)江戸幕府は,キリスト教の禁止を徹底させようと
ポルトガル船の来航禁止を目的とした鎖国令を出すのである。
これにより,コンフェイトの輸入が一時とだえるのであるが
唐人によつてその製法が再び伝来され、日本人が自らの技術として製造していくのである。
このことは、井原西鶴の「日本永代蔵」(1688年)の中で
長崎の町人が「こんぺいとう」の製造に2年余りも取組み、遂に成功し大金持ちになる逸話が記されている。
そして、江戸時代末期の頃には各地にこんぺいとうの製法が伝わっていき、盛んになっていく。
江戸時代後期に手づくりされていたこんぺいとうは、明治の後期になると少しずつ機械化されていく。
こんぺいとうの機械について調べると、特許としては明治36年に
「金米糖製造器(回転輪釜)」の名で出願されており
この回転式製造機械を発明したのは村上辰三郎と言う。
この特許権を買い取り、こんぺいとうの量産をしたのが三谷為助である。
彼は,こんぺいとうの製造技術者であった東海慶太郎とともに、大阪西区に回転釜20台を据えて
「機械製金米糖」と称して大々的に売り出した。
この頃の加熱の方式としてはコークスが使われており、この火加減の調節が難しく
こんぺいとうをつくる職人は何年もかけ技術を習得したといわれている。
では,ポルトガルにおいてコンフェイトはどのような運命を辿っているのか。
勿論、今も作られている。ポルトガル本土のcoinbra(コインブラ)でも製造されてるし
また離島テルセイラ島にも数軒の工場があり、営々と作り続けられているのには
やはりコンフェイトが人々のこころに訴える何かがあるということであろう。
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とん鍋 とん串 とん彩や-大阪福島店
大阪市福島区福島5丁目10-13
06-6456-1038
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